西アフリカの腕輪型銅貨−マニラ
腕輪型銅貨 ”マニラ”
18世紀〜19世紀前半 74.4g 60.0mm
1470年ころ、西アフリカを探検していたポルトガル人たちが、この地方で銅が「赤い金」と呼ばれて珍重され、銅の腕輪が貨幣の機能を果たしていることを知りました。 腕輪は純銅製で、長さ10cm、重さ300gもあるものでした。
ポルトガルは、アントワープの工場でこの腕輪を大量に作り、西アフリカとの交易に使いました。
この腕輪は、「マニラ(Manilla)」と呼ばれました。語源は定かではありませんが、ラテン語の MANUS(手)または、 MONILE(ネックレス)の複数形 MONILIA ではないかと推定されています。
1490年ころのポルトガルの記録によると、奴隷1人がマニラ12〜15個、1505年のナイジェリアでは、大きな象牙1本がマニラ1個、奴隷1人がマニラ8〜10個だっだそうです。
16世紀になって奴隷貿易が盛んになると、マニラの生産も盛んになりました。 そしてマニラは、西アフリカ海岸一帯の最も標準的な貨幣となり、市場での取引、結婚の結納金、罰金の支払い、祈祷師への報酬、戦争の軍資金、埋葬金などに使われました。
また、ポルトガルに代わって、フランスやイギリスが主役になりました。イギリスのバーミンガムやブリストルには大量に製造する工場ができました。
素材は、最初は純銅だったのですが、ヨーロッパ人が作るようになってからは黄銅になり、さらに17世紀になって青銅になりました。
また、腕輪の機能は形骸化され、長さ6cm、重さ75gくらいになり、とても腕につけることができないものとなりました。上の画像もそのようなマニラです。
イギリスの半ペニー銅貨
ジョージ6世
1936〜52
19世紀に奴隷貿易が下火になると、マニラの役割も下火になりました。
しかし20世紀になっても、ナイジェリアのイボ族など一部の人たちは、まだ貨幣として使っていました。
1948年、イギリス政府はマニラの回収をすすめ、マニラ1個をイギリス通貨3ペンスで交換しました。交換は1949年4月1日まで続けられ、およそ3200万個が回収されたそうです。
2010.9.11