宝永通宝

宝永通宝
宝永5年(1708)発行
面に「宝永通宝」、背輪に「永久世用」、および「珍」の極印
37.1mm 8.1g

荻原重秀の元禄の改鋳、宝永の改鋳などで、金貨・銀貨が大量に出回ると、相対的に銭が不足し高騰しました。
その対策として、日本史上初の十文銭を発行することにしました。この推進者は、若年寄稲垣重富です。
このとき日本で使われていた銭は、一文の「寛永通宝」だけでした。新しい銭は「宝永通宝」と名づけられ、「寛永通宝」よりずっと大きいものです。
宝永5年(1708)2月より、京都七条にて、年間10万貫(1000万枚)の計画で作られ始めました。
鋳銭を請け負ったのは、有名な紀伊國屋文左衛門でした。 彼は全財産をかけてこの事業に取り組みました。

当初は、当時の人たちも興味津々としていたようです。名古屋藩士の日記『鸚鵡籠中記』の中にも、
和銅年中に始めて銅銭行わせ給う。今年まで一千一年になり侍る。日本にて大銭の製は今度始めてなり。 [宝永5年4月10日]
と、和同開珎の発行(708年)の1001年めになって初めて大銭が作られたことを書いています。

しかし、この大銭はあまりにも不評でした。
10文銭なのに、重さが1文銭の2.5〜3倍しかありません。
また当時は、銭96枚を100文と数える習慣があったのですが、その習慣とは相容れません。
結局、翌宝永6年正月には通用停止となりました。通用したのは1年足らずです。
こんな落首ができました。
大銭を作りし人の名を問へば 元は稲垣 今ははじかき
紀伊國屋文左衛門は、これを期に没落してゆきました。

2008.8.13