加治木銭

加治木洪武通宝  23.0mm 2.3g

黄色の線は、明治初年に変更された国境
  中世、銭は中国からの渡来銭が主たるものでしたが、日本でも中国の銭を模した銭が製造されていました。
  銭は、東北から九州まで全国各地で製造されましたが、製造地が明確に判明している銭は、加治木銭だけです。
  面文は明銭の洪武通宝ですが、裏面には、「加」「治」「木」のどれかの文字があります。ただし、「加」と「木」のものは殆どありません。 やや小ぶりで、鉄分を少し含むため磁性があるのも特徴のひとつです。
  この加治木銭についての文献記録はありません。 鋳造時期についても諸説あり、古くは嘉吉元年(1441)とする説があり、最新では元禄年間(1700年ころ)とする説まであります。
  以下は、このころの加治木の動きから推測する加治木銭の歴史です。

  嘉吉元年(1441)、島津忠国、足利義教より琉球国を与えられる。このとき、琉球との貿易用に加治木にて鋳銭を開始したとの説がある。
  天文23年(1554)、加治木城主肝付兼盛が、蒲生城主蒲生範清に攻められるが、島津貴久の救援により城を守りきる。この後、肝付氏は島津氏の被官となる。
  天正15(1587)、秀吉の九州征伐で、島津義久は降伏。
  文録2年(1593)、秀吉の命により、石田三成が島津領を検地する。加治木1万石は豊臣秀吉の蔵入地となる。
  慶長4年(1599)、慶長の役の恩賞として、加治木を返還される。おそらくこの頃、加治木での鋳銭が始まる。
  慶長10(1605)、島津義久が、先代の貴久を祭る春日寺を建立した際に、先代の庵号「大中庵貴久公」にちなんで「大中通宝」を鋳造する。これは、通用を目的としたものではなく、供養銭、または上棟銭と呼ばれる。
  慶長11年(1606)ころ、島津義弘、加治木に館を構えて住む。義弘は、元和5(1619)に85歳で没。
  慶長14年(1609)、島津家久、琉球に出兵し征服する。
  寛永8年(1631)、島津家久、3男の忠朗に加治木1万石を与える。これが「加治木島津家」の祖。
  寛永13年(1636)、幕府、「寛永通宝」を発行開始し、寛永通宝以外の銭を寛永通宝で置き換えることを積極的に推進する。おそらくこの頃、加治木での鋳造が終る。
  寛永20年(1643)、幕府、私鋳銭を禁止する。
  寛文10年(1670)、幕府、寛永通宝以外の銭の通用を禁止する。
               ┌義久
   島津忠国─(5代略)─貴久┼義弘─忠恒(のち家久;叔父と同名)┬光久─・・・・[島津氏本家]
               ├歳久              └忠朗─・・・・[加治木島津氏]
               └家久
2007.5.3