箱館通宝


  箱館通宝  

  嘉永7年(1854)3月、神奈川で日米和親条約が調印され、1年後に箱館を開港することになりました。 幕府は、その年の6月に、「箱館奉行所」を設置しました。 奉行は2名(後に3名)です。
  奉行所では、港の整備とともに、蝦夷地の漁業・農業・鉱業の開発を積極的に行いました。 五稜郭を建設したのもこのころです。

  安政元年(1854)ころの箱館の様子を書いた『箱館風俗書』という本には次のような記録があります。
   大工手間料1日  358文
   船大工手間料1日 458文、3日だと金1分(1700文相当)
   豆腐1丁 24文
   風呂代  大人7文、子供5文
   髪結   32文

  人口が増加し商業が盛んになると、小額貨幣が不足してきました。 安政3年11月、箱館奉行の堀織部正、竹内下野守の請願により、蝦夷地でのみ通用する銭の発行が許されました。 これが「箱館通宝」です。 小さな鉄銭で、穴が四角ではなく、丸いものでした。 裏には安政の「安」の字があります。 鋳造には南部の職人を呼び寄せ、安政4年4月から翌5年11月までに、100,610貫(1億枚)を鋳造しました。
  鋳造された銭は、両替商に1両=6950文で引渡され、安政4年5月から、1両=6800文の割合で通用しました。

五稜郭の中の箱館奉行所 2010年1月
  慶応4年(1868)4月、新政府は箱館奉行所を廃止し、「箱館裁判所」を設置しました。 五稜郭の戦いは、その年(明治元年)の10月から明治2年5月にかけてのことです。 戦いの後、箱館は「函館」と改称されました。

3.2g 22.7mm
2005.12.28