『鸚鵡籠中記』

 朝日文左衛門、尾張藩の御城代組同心、御畳奉行です。延宝2年(1674)に生まれ、享保3年(1718)、44歳にて没しました。この人が有名なのは、貞享元年(1684)より死の前年までの日記を残したからです。日記のタイトルは『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)といいます。

 文左衛門さん、畳奉行という職にありましたが、仕事をまじめにやっているとはみえません。
 何かにつけて、飲み、遊び、そして日記をつけました。 自分や友人達の日々の生活の他、名古屋や江戸の刃傷、強盗、心中、浮気騒動などなど、当時の事件・風説が実にこまめにつけられています。 中には、藩主のご生母さまのご乱行についても細かく書かれ、これが元で長く尾張藩の極秘文書になっていました。

 赤穂浪士の討ち入りがあった時代です。「葉隠」の成立もこのころです。武士道を貫いた武士もいた時代、文左衛門さんは泰平の元禄を謳歌したようです。
 (テキストは参考文献@またはAを使用しました)

 ●朝日家の収入
 朝日家は、長良村と野崎村に100石の知行所がありました。これらの村は、何人もの藩士が分割して知行していました。毎年、村から取れる米に対する税金の割合を決めるのが「検見(けみ)」です。
 ■晴天。予、日の出過ぎ時分に長良村へ検見に行く。一向寺にて支度す。飯、汁菜。鱠(なます)、すばしり、大こん。煮物豆腐、イモ。鰻こくせう。免番衆四人、酒ならびに肴一種づつ持参、坂井十左衛門小鳥焼きて、山崎甚右衛門かまぼこ、田嶋儀兵衛酢蛸、松井勘右衛門鰡(ぼら)小串。[元禄7.9.10]
 農民にとっては、極めて厄介なことですが、侍達にとっては、まるで物見遊山です。
 ■長良村の免定る、四ツ五分五厘。野崎村の免三ツ六分五厘。[元禄7.11.1]
 長良村は45.5%、野崎村は地味が悪いためか36.5%の税率に決まりました。
 収入の米は、年に何回かに分けて米屋に売却しました。
 ■予、米屋理左衛門に命じて米十三石を払う。長良九石、野崎四石。ただし両につき一石三斗。母と慶に方金一粒づつ進ず。[元禄8.12.5]
 1両=1.3石の値段で13石を売りました。合計で10両です。そのうち、金1分ずつを母と妻に渡しています。

 文左衛門さんの収入は、知行100石、畳奉行の役料40俵で、合計すると実収60石くらいです。
 当時、1石は0.8〜1.2両くらいですので、年収は50〜70両になります。
 これで、家族、下男、下女(兼妾)ら6〜7人を養います。
 この時代、一家族20両あれば、何とか暮らせたそうですから、余裕があります。 日記のなかにも、お金に困っている様子はあまり見受けられません。
 文左衛門さんの年収を現代の1200万円とすると、
   金1両 = 20万円   銀1匁 = 3000円   銭1文 = 50円
くらいとなります。

 ●生類憐れみの令もなんのその
 時は犬公方綱吉の治世です。生類憐れみの令は日本国中に有効でした、が、・・・
 ■夜、余が所にて雉子一羽、鴨一羽を煮て食う。美味胃腸に充つ。石川三四郎、中野紋三郎、一人して鳥目百八十文宛つ出す。 [元禄5.11.3]
 ■夜、井上権左衛門処にて予と加藤平左衛門、神谷壇右衛門、都築分内と、鳥目八十六文づつ出し、雁一羽を料理し、勝手にくらう。歌浄瑠璃、興を催す。[元禄7.2.3]
 さすが御三家筆頭の尾張藩士のやること、将軍様のご命令なんのそのです。酒の肴は、雉、鴨、雁、鳩などが好まれたようです。雉1羽+鴨1羽=540文、雁1羽=430文の計算です。

宝永通宝 37.1mm 8.1g
 ●大銭「宝永通宝」が発行される
 1文銭の寛永通宝の他に、10文銭の「宝永通宝」が発行されました。日本初の「大銭」です。京都七条で鋳造されました。
 ■江戸において、銭にわかに今日上げ、(金)一分につき一貫文換え、夕方少し相場下がる。これは昨日、向後銭の相場両につき四貫文より三貫九百文に相定しといい、追付京にて一銭十当の大銭仰せ付けらるの仰せ出しこれ有る故なり。[宝永5.閏正.29]
 ■新大銭頃日毎日二十駄ずつ江戸へ下る。一駄に大銭十五貫文と云々。  和銅年中に始めて銅銭行わせ給う。今年まで一千一年になり侍る。日本にて大銭の製は今度始めてなり。 [宝永5.4.10]
 和同開珎の発行は708年、この記事は1708年ですから、1001年目というのは正確です。
 ■晴。厳霜。大銭通用の廻状来る。[宝永5.10.23]
 裏に「永久世用」とありましたが、あまりに評判が悪く、翌年正月通用停止になりました。通用わずか三ケ月です。

紀州藩札 164×30mm
ただし、この頃のものではなく、
慶応2,3年発行のものです。
 ●紀州で藩札が回収される
 ■紀州にて羽書(はがき)を取り上げらる。一貫目の羽書に銀百六十目あたう、かつまた家中の給分二十分の一を取り上げ給う。商賈など甚だ困窮す。[宝永4.11.18]
 宝永4年10月、幕府は”向後札遣い停止の事に候”と、各藩の紙幣を禁止し、50日以内に回収するよう命じたため、紀州藩では、銀1000匁の藩札を銀160匁で引き換えたとのことです。藩札の価値は正価の6分の1になっていたわけです。
 ■去年紀州にて羽書の代わりに金二分通りずつ下されければ
    千早振紙札きへてたつた二分 上くれないに下つまるとは[宝永5.1.29]

 金二分通りずつ・・・、額面の2割で引き換たとのことでしょう(一つ前の日記とは異なりますが)。この6年前に赤穂藩が取り潰しになりましたが、そのとき大石内蔵助は藩札を額面の6割で引き換えたそうです。
 この頃、尾張と紀州は決して仲良くありませんでした。

 ●贋金づくりが捕えられる
 元禄の改鋳で貨幣の品位が下がり、贋金づくりが後をたちませんでした。
 ■(名古屋の)伊勢町御金具かざり屋伏見や八兵衛と、実父権兵衛と八兵衛弟以上三人篭(牢)へ入る。つぶし古金を多く調え一分判を大分造り、弟および駿河丁某の子とを頼み、売りに出せし。あるいは小判にかえ、あるいは米銭等を求め、かの童ども売りかねし時、めいわく切賃なしにかえましょと申せしを、このほど切賃高きに不審と町にて申せしを、目あかしの下代聞き出し、事露顕と云々。金の性と両目は少しも相違なし。二十一日に悉く白状す。小判は造らざるよし申すといえども、小判の作りかけをかの家より取り出す。 [正徳3.12.17]
 古金(慶長小判・一分金)2両分と少しの銀で、元禄一分金3両分が作れます。
 「切賃」とは小判を小額の貨幣に交換するときの手数料で、このころ小判1枚につき、10文前後だったそうです。

雁首銭 23-25mm 2.8g
 ●「雁首銭」が高く売れる
 ■頃日、真鍮おびただしく高直になる。銭の中の雁首銭を残らず撰み出す。十文にて十四、五文に売るという。これは勢州菰野の町人、真鍮銭の銭座旧冬より願い、近国の真鍮を買い込む故なり。但しこの願い叶わず。 [正徳2.2.4]
 銭の鋳造を民間が請け負うことはこの時代よくあることでした。
 「雁首銭(がんくびせん)」とは、きせるの先の雁首を潰して、普通の銭に混ぜてつかう、いわば贋金みたいなもので、真鍮でできていました。真鍮が高騰したため、これが高値で売れたとのことです。

永楽銀銭 23.5mm 4.5g
 ●「銀銭二文」下さる
 ■(公)円城寺川御渡り、御供御待合の内、拝見の内に九十三の老人白髪群に超ゆるあり。名を御尋ねの処、松原村源信と云々。・・・ 源信四代前までは城主なりと云々。石川理左衛門に命じ、金壱分・銀銭二文下さる。[宝永6.9.3]
 殿様(尾張藩第4代藩主・徳川吉通)が領内で白髪豊かな老人に目をとめ、金1分と銀銭2文をくださったとのことですが、「銀銭二文」というのがコインコレクタにとっては気になります。当時銀銭が使われていた記録はありません。太閤銀、紀州永楽などのことでしょうか。または稀に寛永通宝の銀銭がありますが、そのようなものでしょうか。

 ●「昔の拾両判」が掘り出される
 ■濃州恵那郡大井村の内野畑という所、新畑の畦石、横一間、長さ二十間ほどの石蔵あり。今日石取りのけ畑に仕り候とて地をならし候えば、六右衛門下人喜之助左[⇒右図]のごとき金二枚掘り出す。・・・ 御国奉行衆より御前へ上る。天野治部がいう、これ昔の拾両判なりと。十二月初め、六右エ門と喜之助に拾弐両弐分ずつ御金くださる。[享保2.11.22]
 江戸時代の大判ではないようです。長さ6〜7cmで、厚さ5mmくらいですから、分厚い金の塊のようです。戦国時代の竹流金か蛭藻金の一種だと思いますが、こんなものを掘り出すとは運のいいことです。

 ●その他、いろいろ
 ■本屋の屋敷屋根棟をつつむ。屋根葺き二人に百二十文ずつ。[宝永4.8.29]
 台風の後始末のようです。4年後には、3人に130文ずつでした。職人さんの1日の労賃は120〜130文だったようです。
 ■公方天下の酒の運上五割を召しあげらるさたある故に、酒一升百文ずつになる。[元禄10.10.16]
 酒に限り、50%の消費税がかけられるようになったとのことです。酒好きの文左衛門さんにはこたえたでしょう。
 ■丑刻より藤九先生、理右、伊左、上野小左、私宅まで来る。長久手へ行く約束故なり。酒を呑み大声を発し行く。古戦場を眺め、旧塚を見る。仁左衛門というもの案内す。百文取らす。たのしむ事甚だし。[元禄10.9.24]
 文左衛門さんたちのピクニックの様子が目に見えるようです。長久手の戦いは113年前のできごとでした。
 ■予、魚津円蔵と相合して、「太平記評判」を買う。一両一分十匁。[元禄8.8.28]
 随分高価な本です。よくぞ思い切って買ったものです。現代の値段で28万円です!
 ■磔木、天下定まりて六匁四分という。[宝永3.5.27]
 磔(はりつけ)用の木です。こんなものにも相場があったとは驚きです。現代の価値で2万円です。世の中が平和になったため、需要が少なくなったということでしょうか。しかし、この日記の中には、磔になった罪人の話しがしばしば出てきます。

元禄豆板銀
これまでの慶長銀は品位が800でしたが、元禄銀は640です。
元禄の「元」がついています。
左の豆板銀は約3.8匁ですから、一文銭にすると230文くらいになります。
19-21mm 14.1g
荻原銭
元禄の改鋳は金貨・銀貨だけでなく、銭貨でも行われました。
元禄13年から京都七条と江戸亀戸で発行された銭は、
これまでの7〜8割の重さしかありませんでした。
勘定奉行荻原重秀の名をとって、荻原銭と通称されています。
23.3mm 2.2g

 ●江戸藩邸での事件
 文左衛門さんの得意とするところは、江戸や尾張の事件・風説を事細かく記すことです。特に情死や殺人事件などは、最も得意としたところで、事細かく独特の文体で記しています。
 あるとき、江戸の藩邸で、内藤頼母という25歳の武士が、殿様の側に仕える女性と密通しました。
 ■君の御寝所に入る者、漸く四五人ばかり、頼母其の内なり。御休所に数多の美女ありて粧を催し媚を求む。 海裳帯雨、西施眉形容艶々として疲療禁ず可らず。 頼母眩みて互いに通ず、艶言撮手舐唇テ終為合更。 [元禄5.4.1]
 最後の10字ほど、読み下しはできなくても、情景は十分想像できます。事は露顕し、頼母は自害したそうです。


参考文献
 @加賀樹芝朗、「元禄下級武士の生活」、雄山閣、1970
 A朝日重章著、塚本学編注、「鸚鵡籠中記」、岩波文庫、1995
 B神坂次郎、「元禄御畳奉行の日記」、中公新書、1984


2003.9.14