藩札の話

 寛文元年(1661)、越前福井藩が藩財政の逼迫を改善するため、領内のみで通用する銀札を発行しました。 これが藩札の最初です。 このころは「羽書(はがき)」と呼ばれていました。
 その後、多くの藩でも発行するようになりました。 当初は通貨不足を補うためでもあったのでしょうが、財源不足を補うために発行されたのが殆どです。
 多く発行されたのは銀単位の札(銀札)でしたが、明治になって銭札が主流になりました。
 発行は明治3年まで続きました。

● 最初の藩札  越前福井藩 銀10匁札 寛文6年(1666)発行 (イミテーション)

  藩札を最初に発行したのは福井藩で、寛文元年(1661)のことです。 福井藩は相次ぐ減封で藩財政が窮乏し、遂に領内でのみ通用する紙幣を発行したのです。
  用紙は領内の五箇村で造られた特殊な「御留紙」で、この製造技法は藩の極秘事項とされていました。
  右の札は、このころ発行された札のイミテーションです。
  表の「銀十匁」の墨書きの両側に、十什諿濈卙、汁諿集湒拾とジュウまたはシュウの発音の字を並べている、面白いデザインです。 このデザインは幕末に至るまで踏襲されました。

 【表】[上部]福居、銀十匁、右に十什諿濈卙、左に汁諿集湒拾、[下部]大目札、駒屋善右衛門、両替座、荒木長右衛門
 【裏】寛文


● 幕末の福井藩札  越前福井藩 銀100匁札 元治元年(1864)発行

  福井藩では、その後も幕末に至るまで藩札を発行し続けました。
  基本的なデザインは、200年前のものを踏襲しています。
  このころ福井藩の藩財政立て直しに活躍したのは、三岡八郎(後の由利公正)です。

  藩札を発行した藩は、藩領内では藩札を使うことを強制しました。 その最も厳しかったのは福井藩です。
  安政5年(1858)に江戸出張を命ぜられた三岡八郎は、藩当局より支給された一分金を受け取り、金貨を手にしたのは初めてだと言ったそうです。

 【表】[上部]元治、銀百匁、右に百舶博柏陌、左に白帛栢柏璞、[下部]大目札、荒木、駒屋
 【裏】福井
  174×64mm


● 「屏風札」  摂津尼崎藩 銀10匁札 安永6年(1777)発行

  藩札の中では、最大の部類に属します。 大きくかつ厚手の紙のため、縦に二つ折にすると屏風の様に立てることができます。 そのため、「尼崎の屏風札」との異名がつけらています。
  表の版木は、上・中・下の3枚に分割されています。 版木を別々に管理することで、贋造の危険性を少なくしたものです。
  裏には、連番「ま17922」の番号が墨書きされています。 一枚一枚手で書いたのです。

 【表】[上部]摂州尼崎札、銀拾匁、含章の朱印、
    [下部]右に尼崎引替役所、左の空白部は札請人の印を押す場所
 【裏】ま17922の手書き
  188×80mm


● すかし入り「米札」  若狭小浜藩 米二升札 寛政11年(1799)発行

  金銀銭札の発行には幕府があまりいい顔をしなかったため、形の上は「米札」の体裁をとっていますが、実態は「銀1匁札」に同じです。
  この札には、「ワカサ」のすかしがあります。

 【表】[中部]寛政十戊午年、米弐升也、代銀壱匁、[下部]米手形、役所
 【裏】[上部]まつ、[下部]表書之通無相違可被相渡者也、用人中
 【すかし】ワカサ
  170×60mm


● 「品物料札」  石見津和野藩 銭12文預札 文久3年(1863)発行

  珍しく、「品物料」とあります。 この時発行されたのは、この12文札だけです。 どういう目的で発行されたのか想像すると楽しくなります。
  この札が発行された前年、津和野の森家に林太郎が生まれています。 後の森鴎外です。

 【表】米銀札、文久三亥年、銭拾弐文預、米札役所、石州津和野、・藤十右衛門、永見平五郎、三浦新五郎
 【裏】品物料
  166×41mm

● 「永銭札」  備中庭瀬藩 永銭10文預札 発行年不明

  徳川の初期、1両=永楽銭1000文という公定レートがありました。
  「永銭」とは1両=1000文で数える方法です。 したがって永銭10文とは、1/100両に相当します。
  金貨の単位は、金1両=金4分=金16朱、の4進法で、計算には不便でした。 この点、永銭は10進法で便利でした。

 【表】[中部]備後国庭瀬領分、永銭拾文預リ、産物為替金手形、[下部]大阪、大根屋
 【裏】此手形弐拾五枚ヲ以金壱分引替
  156×39mm

● 銭匁勘定札  豊後岡藩 七銭一分預札 発行年不明

  江戸時代後期、九州地方を中心に、銀1匁を銭○文に固定したうえで、その銭○文を「銭1匁」と数える習慣が普及しました。 見かけ上は銀目なのですが、実態は銭貨建てなのです。 この方法は「銭匁(せんめ)勘定」と呼ばれています。
  銀1匁が銭何文に相当させるかは、時と所によって異なります。
  右の藩札の「七銭」は、銀1匁=7銭(銭70文)とする方法です。 1匁は10分ですから、「七銭一分」は通常の銭7文に相当します。 
  この地方では、他に「八銭」、「七六銭」、「五銭」などの習慣もありました。
  また唐津藩では「七二銭」、対馬厳原藩では「六銭」、「七二銭」などの単位の藩札を発行しています。

 【表】七銭壱分預、銀札会所
  140×37mm


● 「天明飢饉札」  陸奥仙台藩 銀15匁札 天明4年(1784)発行

  天明3年に始まった大飢饉で、仙台藩は「仙台通宝」発行、翌年にはこの藩札を発行しました。 小さな和紙にスタンプを幾つか押しただけの粗末なものです。
  正金100両に対して125両で引換え、領内での通用を強制しようとしましたが、商人たちの抵抗にあい、発行後半年後には相場が下落、50分の1にまでなりました。 藩は、僅か半年で札遣いを断念しました。

  110×38mm


● 布を貼った藩札  陸奥仙台藩 金一朱札 安政年間(1854〜60)発行

  上の天明飢饉札を発行した仙台藩が70年後に発行した藩札です。
  飢饉札は粗末なものでしたが、この藩札は堂々たるものです。 裏面には布を貼っています。

 【表】金一朱、右可相渡者也、両替所、為替組中
 【裏】[上部]赳、[下部]六十九、江戸より金銀到着次第此手形江引替可相渡候事、[布の中]正金銀江引替可相渡候事
  148×45mm

● 銭札に変わった銀札  伊勢津藩大和古市飛地通用 銀1匁改め銭124文札 明治初年発行

  伊勢津藩には、大和国内にも古市村を中心に3万石あまりの飛地がありました。この札はこの飛地だけで通用した札です。
  明治元年、新政府は銀目建ての通貨を禁止しました。 そのため、それまでの銀札のデザインに銭の金額を追加して銭札として発行したものです。

 【表】銀壱匁の上に「銭百弐拾四文立」、此札銀子引換可申可也、大和古市銀札会所
 【裏】安永乙未、銀壱もんめ
  170×33mm


● 大蔵省印の押された札  阿波徳島藩 銀1匁札 元文年間(1736〜41)発行

  明治5年、明治政府は、旧藩札を新たに発行された「明治通宝札」に交換しました。 交換レートは各藩札の相場によって決められました。 徳島藩の銀1匁は8厘に交換されました。
  明治通宝札は発行数が大量でなく、また10銭未満の小額紙幣が無かったため、交換すべき藩札に大蔵省のスタンプを押して、当面の通用札としました。 この徳島藩の銀1匁札には「八厘大蔵省印」のスタンプがおされています。
  この札は明治12年まで通用しました。

 【表】銀見極、一匁、享保十五庚戌、[下部]阿波淡路銀札、魚屋寺沢
 【裏】元文
  150×40mm

● 「金札」  土佐高知藩 金1分札 慶応2年(1866)発行

  藩札は通常銀札か銭札が殆どです。この金札は、土佐藩の軍事用だったことが推察できます。裏の「通用限戊辰」の字が、時代を感じさせます。
  また、この藩札は(木版刷りではなく)銅版刷りで、しかも「土左」の字のすかしも入っています。

 【表】金壱分、右に慶応二年収券、左に丙寅十月
 【裏】通用限戊辰
 【すかし】土左
  164×48mm

● 家老が発行した札  土佐高知藩の家老札 8銭1匁札 文政2年(1819)発行

  大名だけでなく、家老が発行した札もあります。 右の札は、土佐藩の家老、佐川の領主深尾氏(1万石)が発行した札です。 8銭1匁は、銭80文と同じです。
  同じ土佐藩内でも、宿毛の伊賀氏(6800石)が札発行しています。 また、広島藩の家老、備後三原の浅野氏(3万石)、備後東城の浅野氏(1万石)も札を発行しています。

 【表】預り、八銭壱匁、御産物方、文政二卯改
 【裏】二百八拾八、下部に印の中に佐川
  143×48mm

● ”藩札”  近江膳所藩 銭100文札 明治元〜3年(1868〜70)発行

  意外に思えるかもしれませんが、江戸時代、「藩」という言葉は一般には使われていませんでした。 新井白石のような一部の学者階層が使ったことはありますが、それは例外的なことです。 自分たちの領域のことを、「御国(おくに)」「御国家(おんこっか)」「公儀」と呼び、対外的には、「領分」「在所」「家」などと呼んでいました。
  「藩札」という言葉も全く存在せず、「札(ふだ)」「羽書(はがき)」「銀札」などと呼ばれていました。
  「藩」、「藩札」の言葉が使われるようになったのは、慶応4年=明治元年からです。
  右の「藩札」には、はっきりと「膳所藩」と記されています。 それだけで、明治になってからの発行だということが分かります。

 【表】銭百文
 【裏】此手形以引替可相渡者也、膳所藩
  127×35mm


● オランダ語のある札  遠江浜松藩 銀2分札 安政3年(1856)発行

  こういうのをモダンと言うのでしょうか。 なんと、裏面中央にオランダ語が書かれています。
  「voordeelig」、英語ではprofitable、日本語では”有益な”と言う意味です。

 【表】銀弐分、天神町、郷引替所
 【裏】voordeelig、浜松領肥シ預
  127×35mm


● 「信濃全国通用札」  信濃高遠藩 銭100文札 明治2年(1869)発行

  慶応4年(明治元年)8月、信濃にあった旧幕府領・旗本領・寺社領(左の地図の白色部分)を統治するため、伊那県が置かれました。 信濃はこの他に11の藩と、国外の3つの藩の領地からなっていました。
   ・@伊那県
   ・A中野局、B塩尻局、C御影局、D中之条局  (これらは伊那県の支局)
   ・E飯田藩、F須坂藩、G飯山藩、H竜岡藩、I岩村田藩、J小諸藩、K松本藩、
    L上田藩、M高島藩、N高遠藩、O松代藩
   ・P尾張名古屋藩領、Q越後椎谷藩領、R美濃高須藩領
 伊那県が中心となって、これら19の組織が共同して信濃全国で一律に通用する紙幣を発行しました。 発行したのは1200文、600文、100文の3種類で、すべて同じデザインです。

 【表】[上部]百文、[下部]信濃全国通用
 【裏】[上部]高遠藩会計方之證印、[下部]藩県引替所印
  109×36mm

● 「62.5文札」  三河田原藩 永銭62文5分札 明治3年(1870)発行

  三河田原は、幕末渡辺崋山がいた藩です。
  永銭とは、庭瀬の藩札のところで紹介したように1両=1000文で計算する単位です。
  62.5文とは何とも奇妙な価ですが、実は1000/16文ですから、1/16両、つまり金1朱ということになります。
  田原藩では、このとき1貫文(1両)、250文(1分)、62.5文(1朱)の三種類を発行しています。

 【表】永銭六拾弐文五分
 【裏】[上部]田原藩限融通、以米価換此永、引替所[下部]米札会所
  96×30mm

● 「連判状札」  出雲松江藩 銭2貫文 明治3年(1870)発行

  明治初年に、出雲10郡で通用された札です。
  表下部やや左に「未五月限」とあります。 未年は明治4年です。
  その左に「人弐百五十」とあります。 連番のようです。 先頭の文字は、天・地・人、なとがあるそうです。
  大商人や大庄屋が連名で発行したもので、藩の許可を得ていたとはいえ、「藩札」には属さないかも知れません。

 【表】頭取質地改、十郡切取遣、山本権市、大庄屋為右衛門、大庄屋谷右衛門、銭二貫文也、右慥預申上候以上(?)、山田善右衛門   129×177mm



藩札略史 :
  寛文元年(1661) 越前福井藩、藩財政の逼迫を改善するため、銀札を発行。
  この後、名古屋、美濃大垣、飛騨高山、伊予宇和島、筑後柳河などの諸藩も発行。
  宝永4年(1707)10月、幕府は、札遣いを禁止。
  享保15年(1730)6月、20万石以上の藩は25年、20万石以下は15年限りでの条件で藩札の発行を許可。
  宝暦5年(1755)4月、金札の通用を禁止。
  宝暦9年(1759)8月、銀札の新規発行を禁止。 諸藩では、金札・銀札・銭札ではなく、米札、商品切手・預り切手・為替切手などの名目で発行。
  寛政10年(1798)12月、米札の新規発行を禁止。
  明治元年、銀目遣いが禁止されたため、銭札の発行が中心になる。
  また、これまであまり発行していなかった関東・東北の諸藩でも藩札を発行することが多くなる。
  明治2年の流通量は、全貨幣(1.87億円)の約13% (⇒右図)。
  明治4年、新たな発行を禁止。 このときに流通していたのは、244藩、1694種、総額3855万円。
  明治4年12月、藩札と新貨幣との交換価格を定めた「新貨幣旧藩製造楮貨価格比較表」を公表。
  明治5年8月、「明治通宝札」と交換開始。
  明治12年6月、回収終了。

2003.7.6  2004.1.14 膳所 2005.1.15 高遠 2005.7.23 田原  2007.9.27 地図追加 2011.7.20 地図改訂 2013.8.20 数点追加