中 世 の 物 価


   (1) 食べ物の値段

  右のグラフはこのころの米の値段です。
  短期間に値段が数倍変動することは不思議ではありませんでした。戦乱や飢饉もあったでしょうし、季節や地域による格差も大きかったと思われます。
  だだし、350年間でそれほど大きなインフレになっていない事には注目すべきです。ほとんどが500〜1500文の間にはいっています。
  

  米以外の食べ物の値段です。
  同じ塩でも、年代と地域で大きく異なっていることがあります。 甲斐と若狭の塩の値段を比べてください

   戦場で働く足軽の1日分の食糧は、米6合、味噌0.2合、塩0.1合でした。 米・味噌・塩をどれも1合1文とすると、合計すると6.3文になります。 (足軽たちもふだんは麦・粟・稗・里芋などを主食としていました。)

   (2) 土地の値段

  東寺に残されている土地売買の文書から、同一土地(農地)の1段(300坪)あたりの値段の変化を示したものです。
  13世紀から14世紀にかけて、大量の渡来銭が流入し通貨量は増大したと思われるのに、貨幣価値は逆に上がっています。 土地の値段は少しずつ下がっています。
  京の八条大宮の土地だけは異常に高いです。 何か特殊な価値があったのかと思われます。
  『徒然草』の兼好法師は、正和2年(1313)、山科小野荘の土地1町歩を六条氏から90貫文で購入しました。 ところが9年後に、大徳寺に30貫文で売却しました。 なぜ3分の1で売却したのか、理由はよく分かっていませんが、大徳寺への寄進の意味もあったのかもしれません。

  【出典】松延康隆、「銭と貨幣の概念」、『列島の文化史6』日本エディタースクール出版部、1989
     「日本生活文化史 第4巻 庶民生活の上昇」、河出書房新社、1986


   (3) 労 賃

労賃備考
1496100文 
1498〜1517100〜105文 
1521〜1548110〜115文 
156680文+飯米1升2合米との併用となる
156880〜81文+飯米1升5合 
1587米1斗余米への一元化
1592111文銭に戻る
1600銀8分銀に変化
  右の表は、京の臨川寺、大徳寺などでの番匠(大工)、檜皮師らに対する支払い記録です。100文前後で安定しています。

  16世紀後半、小田原北条氏の領内で人夫は1日20文、職人(木挽き職、鍛冶職など)は50文、との記録があります。右の表よりは少ないですが、地方のためなのか、または領主様の御用で低価格に抑えられていたのかも知れません。

  また、時代は少し下がりますが、元和6年(1620)、大坂城の普請のため筑前の黒田氏は国許から信頼の置ける百姓を人夫としてつれてきます。 そのときの賃金は食事つきで銀1匁3分でした。 このころの銀1匁は銭80文に相当します。

  【出典】鈴木公雄編、「貨幣の地域史」、岩波書店、2007
      「神奈川県史」、神奈川県、1981



   (4) 荘園の年貢

 ● 1333年の備中国新見荘の年貢
年貢の対象収穫高年貢高文/升銭換算内、代官分
百姓名12名
散田百姓39名
田28.2町178.1石53.9石10.0文43.8貫10石
畠64.9町大豆18.4石17.5石5.7文7.6貫4石
10.6石10.6石6.0文4.6貫3石
蕎麦21.1石21.1石3.5文6.3貫3石
高瀬村10名田10.8町銭納(1反あたり1貫)68.9貫
その他の年貢段別銭(1反あたり50文)13.4貫
地 子 銭2.0貫 
そ の 他5.7貫 
合   計152.2貫15.1貫相当
  元弘3年(1333)、備中国新見荘(現岡山県新見市)では、収穫のうち4割近くが年貢でした。 年貢は近くの「市庭」(毎月3回開かれる市場)で現金化されました。 またこの荘園には鉄を産する村(高瀬村)があり、その村の年貢は直接銭で納められました。
  現金に替えられた年貢152.2貫のうち、諸経費を除いた分の127.6貫が京都の領主(東寺)に「割符(さいふ)」(為替手形)で送金されました。 鎌倉幕府最期の年の混乱期にも、為替で送金できたことには驚かされます。
  このような仕事を請け負っていた代官の報酬は米などの現物支給でしたが、銭に換算すると全部で15貫ほどでした。

  また、この年の暮れ12月19日に、国司のお使いご一行が来られました。 総勢83人(内62人は下人)、馬23匹の大部隊です。 もてなしのため、米6斗6升4合と、馬用の豆2斗3升は収穫物から準備し、その他は市庭で購入しました。
    ・清酒  2斗5升 500文
    ・白酒  7斗2升 422文
    ・兎   2羽 190文 (もちろん食用でしょう)
    ・鳥   2羽 210文
    ・スルメ 1帖 45文 (この荘園は中国山地にありますが、市庭では海の幸も手に入りました)
    ・大根  5把 25文
    ・大魚  1尾 80文 (これも海の幸です)
  国司のお使いには「引き出物」として、銭3貫文を贈っています。

  【出典】網野善彦、「日本中世都市の世界」、ちくま学芸文庫、2001

 ● 1356年の若狭国倉見荘の年貢
  延元元年(1356)、若狭国倉見荘の飛地御賀尾浦(現福井県小浜市)の年貢です。上と違って、今度は海辺の荘園です。塩が特産だったようです。
    ・わかめ   20帖   1000文
    ・鯵     50指    100文
    ・小鯵   600匹    200文
    ・とびうお 300匹    150文
    ・鯛 120匹(長さ5寸) 600文
    ・すし鯛5喉(長さ1.2尺)150文
    ・塩   7石1斗2升  2840文
    ・塩     1.5斗    60文
    ・すしおけ  3口     750文


   (5) そ の 他

 ● 1230年 〜 京
  寛喜2年(1230)は、天候不順で全国的に飢饉でした。 伊勢の豪族の藤原実重さんが、京の都で困った人たちに施しものをしました。 今でいうボランティア活動です。
  ■正月廿九日、清水の橋詰にて、銭二十文、米一升つヽ、乞者(こさ)百三十人に施行(せんきやう)ひく
  貧しい人130人に、一人当たり銭20文と米1升を施したということです。
  【出典】本郷恵子、「中世人の経済感覚」、NHKブックス、2004

 ● 1253年 〜 幕府のお触れ
  建長5年(1253)、鎌倉幕府は、盗みの罪人に対する刑罰の基準を定め、「諸国郡郷庄園地頭代」に充てお触れを出しました。
    ・盗品の価値が300文以下のとき、「一倍弁(盗品を返し、かつ同額の銭を支払う)」。
    ・300文〜500文のとき、科料2000文。
    ・600文以上のとき、「一身の咎(懲役または配流)」。ただし、親類家族に咎は及ばない。
    ・再犯の場合は価値にかかわらず、一身の咎。
  時代を考えると、かなり軽い刑のようにみえます。
  【出典】網野善彦他、「中世の罪と罰」、東京大学出版会、1983

 ● 1325年 〜 肥前
  正中2年(1325年)6月、肥前武雄神社の代官が、豊前の豪族から銭2貫文の借金をしました。
  質は2反の畠、利息は「六文利」(1か月で100文につき6文の利息)でした。月6%ですから、年利72%になります。
  12月末までに元利合計2貫800文を返却できなければ、質の畠は貸手のものになります。
  ただしその後いつでも、2貫800文を返せば、畠は返してくれる、という条件でした。
  【出典】井原今朝男、「中世の借金事情」、吉川弘文館、2009

 ● 1329年 〜 木曾
  美濃国小木曾荘(現長野県木曽郡、このころは信濃ではなく美濃でした)は京都の仁和寺の荘園でした。 元徳元年(1329)、この荘園に年貢を調査確定するための検注使のご一行さま20人が来ました。 村では、ご一行さまのおもてなしに大変でした。 特に最初の3日間は、「三日厨」と呼ぶ特別食でした。
  4日目以降を見ると、食事の大半は、お米だけだったことが分かります。
  【出典】「体系日本史叢書15 生活史T」、山川出版社、1994

 ● 1338年 〜 薩摩
  建武5年(1338年)、南九州は飢饉でした。 薩摩の豪族池端氏は、200文の年貢が払えない農民から、9歳になる男の子を奴婢として取り上げました。
  わずか200文で、という声に対して、池端氏は「今は飢饉である。今の200文は普段の2貫文や3貫文に相当する。」と答えたそうです。
  【出典】井原今朝男、「中世の借金事情」、吉川弘文館、2009

 ● 1353〜63年 〜 播磨
  播磨国矢野庄は、京都東寺の荘園です。 この荘園では、守護職の家来たちに、引出物(お礼のお金)、秘計(賄賂)、訪(とぶらい=お見舞)などのお金がたびたび必要でした。 当時の播磨国守護職は赤松氏です。
    ・文和2年(1353) 領地問題トラブルの解決に来てくれた守護職の使者に引出物として750文を贈る。
    ・文和3年(1354) 守護職の重臣が病気になったので訪として350文を贈る。
    ・文和3年(1354) 兵粮免除のため守護職の奉行人2人に引出物として8貫文、奉行人の従者たちにも2貫300文を贈る。
    ・文和4年(1355) 兵粮免除のため秘計4貫120文、また領地問題解決のため秘計4貫240文を費やす。
    ・貞治2年(1363) 隣の荘園との用水トラブル解決のため、守護職の奉行人に秘計600文を費やす。
 【出典】盛本昌広、「贈答と宴会の中世」、吉川弘文館、2008

 ● 1487年 〜 京
  応仁の乱が終わった10年後の文明19年(1487)、京都の御所のすぐ近くに住んでいた左衛門太郎という人が刃傷ざたをおこして逐電しました。 彼の家財産は競売にかけられました。
    ・麦5斗7升で570文
    ・田畑の麦1000文、 豆20文、 立麻30文
    ・麻6連で50文、 麦藁10把で50文
    ・唐杵20文、 臼30文、 鍬2つで70文
    ・桶2つで10文、 箱櫃5文、 かい筵6枚で18文
    ・蚊帳250文、 障子2枚で1000文
    ・小釜250文、 茶碗20文
  【出典】網野善彦、「中世再考」、講談社学芸文庫、2000

 ● 1505−19年 〜 甲斐
大麦小麦大豆小豆ことがら
150570  50 6050 夏に冷害と日照りがあり、不作で飢饉
151280 70    40晩春に雪が積もり、交通が遮断される
151340       豊作。撰銭が盛んになり、物価が下がる
151540  20322012 この年も安値
151610028 6070   駿河との戦があり、交通が遮断。物価高
151860〜70       7月に大風、8月に大霜で飢饉
1519春100  70 80  日本全国大飢饉で、餓死者が出た
1519秋   253225  秋は一転して豊作となる
  戦国の武田氏の時代の甲斐都留郡の河口湖近くで、この地の物価や噂話を記録していた僧侶がいました。
  物価はすべて1升の値段(文)です。 ただし、この地方の枡は「甲州枡」と呼ばれていたもので、通常の3倍(1升=5.39リットル)の大きさのものです。
  天候や戦争などによって大きく変化していることが分かります。 また、米・麦・豆・粟・稗などの相対的な価値の比較には興味深いものがあります。
  また、このころ盛んに撰銭が行われていますが、一般に撰銭が行われると通貨の量が減るため、物価は下がります。
  武田信玄が生まれたのは、この記録の数年後の1521年のことです。
  【出典】大口勇次郎他、「日本史史話1 古代・中世」、山川出版社、1993

 ● 1548年 〜 相模
  天文17年(1548)、鎌倉の荏柄天神社の大修理にあたり関所が設けられ、関銭が次の通り定められました。
    ・商人の麻、紙、布類の荷物 10文
    ・商人の馬            5文
    ・商人が背負っている荷物   3文
    ・一般の旅人と馬      各10文
    ・僧侶、地元の農民       無料
  【出典】「日本史「戦国」総覧」、新人物往来社、平成4
 
 ● 1559年 〜 相模
  永禄2年(1559)、相模小田原の太守、北条氏康の台所に納める魚の価格が決められ、国府津の船主に通達されました。
    ・鰯2匹  1文
    ・大あじ  2文
    ・若魚子  2文
    ・あわび  3文
    ・いなだ  5文
    ・かつお 12文
    ・鯛 6、7寸の10文 1尺の15文 1尺5、6寸の30文
  お上が買い上げる代金ですので、安めに設定されている可能性があります。
  【出典】「神奈川県史」、神奈川県、1981

 ● 1590年 〜 関東
  戦国時代、戦乱が起きると、攻め込んだ兵士たちは村々で人や物を奪い、濫妨狼藉を尽くすのが常でした。 それをなくすには、攻め込んだ大名にお金を払って、濫妨狼藉をしてはならないとの「制札」を書いてもらうことが必要でした。 天正18年(1590)、豊臣秀吉が関東に攻め込んだとき、秀吉は「制札」の値段を次のように定めました。
   ・大きい村 永楽銭3200枚
   ・中くらいの村 この3分の2
   ・小さい村   この3分の1
  【出典】 藤木久志、「雑兵たちの戦場」、朝日新聞社、2005


●「九十九髪茄子(つくもなす)」の値段
「九十九髪茄子」 は、足利義満が所有していた唐物の茶入れです。高さ、幅が6〜7cmの小さなものです。
その後足利義政、山名政豊、村田珠光と伝わりました。 村田珠光が99貫文で買ったことから、「九十九(つくも)」の名が付きました。
その後、越前の朝倉宗滴が500貫で入手しましたが、京の豪商を経て、松永久秀が1000貫で入手しました。
このころ日本を訪れていたルイスフロイスは、この茶入れが2.5万〜3万クルサードもすると驚嘆しています。
(金10両=43クルサード、金1両=1500文で計算すると、およそ1万貫になります。 当時の労働者の300人分の年収に匹敵します。)
この後、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康と所有者がかわり、明治になって三菱の岩崎弥之助(弥太郎の弟)が400円で買ったそうです。
現在は東京の静嘉堂文庫美術館で保管されています。

参考文献:
  「日本史総覧 中世二」、新人物往来社、1984
  歴史学研究会編、「日本史資料−2−中世」、岩波書店、1998
  村上直・高橋正彦監修、「日本史資料総覧」、東京書籍、1986


2002.3.31 この後、たびたび改訂