カウティリヤの『実利論』

インド語版「実利論」(文献Bより)
  紀元前317年ころ、チャンドラグプタが北インドを支配していたマガタ国を倒し、マウリア王朝を創始しました。 アレクサンドロス大王が西北インドへの侵入を断念した数年後のことです。

  チャンドラグプタには、カウティリヤという名参謀がいました。 彼の作品と伝えられる『実利論(アルタ・シャーストラ)』という本があります。
  古代インドにおいては、「法(ダルマ)」、「実利(アルタ)」、「享楽(カーマ)」が人間の3大目的と考えられていました。
  この本は、このうちの「実利」について、王としてのあるべき姿、大臣や官僚の選び方、スパイを使っての権謀術数の方法、城砦や都市の作り方、税金の基準、刑罰と裁判の手順、戦争・外交の方法、農業・林業・漁業の指導、牛・馬・象の育て方、暗殺の方法、毒薬の作り方、何やら怪しげな秘法・・・などなどを、多岐にわたって詳細に説明した大著です。

  日本語訳はすべて上村さんの訳(文献@)です。


● マウリア王朝時代のコイン

  インドで貨幣が最初に発行されたのは、紀元前600年ころだといわれています。 ガンジス川流域に16の国が並立していたころで、釈迦が仏教を始めた頃でもあります。
  当時の貨幣は銀貨が主流で、重さには二つの基準があり、メソポタミアとの交易に適したようになっていました。 
 (1)重い基準 1サタマナ=11g
    これは、バビロニアのシェケル(10.9g)に対応し、主に陸上交易で使用されました。
 (2)軽い基準 1カルシャパナ=3.52g
    これは、バビロニアの軽量シェケル(7.27g)の2分の1に対応し、主に海上交易で使用されました。

  その後、マウリア王朝のころから、「カルシャパナ(パナ)」に統一されました。
  下のコインはすべて、この王朝の1パナ銀貨です。
  形はさまざまですが、大きさは10〜15ミリ、重さは3.0〜3.5グラムくらいで統一されています。
  表面には、太陽のような模様、犬や象などの動物の絵などが描かれています。
  


  「実利論」によると、貨幣の単位は1パナ=16マーシャカ=64カーカニーでした。 1パナ銀貨の他にも、小額の銀貨や銅貨も発行されたようですが、現在見ることができるのは、殆ど1パナ銀貨だけです。
  この1パナ銀貨の価値について、探ってみます。


● 俸 給

  「実利論」では、王の一族や官吏らに対する俸給を細かく決めています。

  ■行祭官・学匠・顧問官・宮廷祭僧・将軍・皇太子・王母・王妃は、48000パナを受ける。これだけの俸給があれば、彼等は扇動を受けることもなく、謀反を起こすこともないのである。[第5巻-第3章-第4節]

  俸給の期間については言及されていませんが、金額からみて年俸と思います。 以下、いろいろな職種の俸給を説明しています。

48000パナ
行祭官・学匠・顧問官・宮廷祭僧・将軍・皇太子・王母・王妃。
24000パナ
門衛長・王宮守備官・執事長・主税官・守蔵官。
12000パナ
王子・王子の母・司令官・都市の裁判官・工場長・顧問官会議のメンバー・地方長官・国境守備官。
8000パナ
武士団の長・象隊と騎兵と戦車隊の長・司法官。
4000パナ
歩兵と騎兵と戦車隊と象隊を管理する長官・物資林と象林の守護官。
2000パナ
戦車の馭者・象の御者・医師・馬の調教師・建築家・動物飼育係。
1000パナ
占者・前兆学者・占星家・プラーナ学者・吟誦詩人・讃嘆者・宮廷祭僧の部下・すべての部局の長官。
王の戦車の馭者。詐欺学生、破戒僧、及び家長・商人・苦行者に扮したスパイたち。
500〜1000パナ
学匠や学者(俸給は能力に応じる)。
500パナ
技能をそなえた歩兵、会計官・書記官などの集団。楽器を作る人々。
村落の使用人・秘密工作員・刺客・毒殺者・比丘尼(スパイ)。
250パナ
役者たち。諜報を伝達するスパイたち(その努力により俸給が増加する)。
120パナ
職人や工芸家(技師)。
60パナ
四足動物や二足動物の世話をする召使・従者・付き人・番人、労働者の頭。
アーリヤに監督された騎手・侏儒・山師たち及び一切の従者たち。

  スパイとか、刺客とか、何やら物騒な"官吏”たちがたくさんいたようです。
  官吏とは別に、最貧層の労働者の賃金は、食事+月俸1.25パナ(年俸15パナ)でした。

  ■菜園・果樹園・花園の番人、牛飼、奴隷、労働者に、彼等の使用人の数に応じて、食物を与えるべきである。そして、1ヵ月に1パナ4分の1の賃金を払うべきである。[2-24-29]

  これらの数字から、1パナは現代人の1万円感覚として考えたいのですが、いかがでしょうか。


● 税 金

払子(はっす)を持つ
ヤクシー女神像


マウリア王朝の首都、
パトナーから出土した
女性の守護神。
前3世紀。
砂岩製の彫刻の傑作
です。

(マイペディア98を利用)
  農民には、灌漑用水の水に対して税金がかけられました。

  ■自己の灌漑用水から瓶などを用いて手で運んだ水の料金として作物の5分の1を払うべきである。牛等の肩にのせて運んだ場合は4分の1、機械を用いて水を導いた場合は3分の1。川や湖や貯水池や井戸から水を汲み上げた場合は4分の1を払うべきである。[2-24-18]

  商人に対しては、都市へ入る商品に対して関税がかかりました。

  ■商品は市外(地方)からのもの、市内のもの、外国からのものである。関税は出入りする品に対してかけられる。入ってくる品については、価格の5分の1の関税をかける。[2-23-1~3]
  ■関税を払わずに旗の下を通過した場合には、関税の8倍の罰金を科す。[2-21-16]

  人や商品が移動するときは旅券が必要で、関所・渡し場などを通行するときも税金が必要でした。

  ■旅券長官は、1マーシャカ(1/16パナ)とひきかえに旅券を発行すべきである。旅券を有するもののみが地方に入ったり出たりすることができる。旅券を持たぬ地方民は12パナを払わねばならぬ。[2-34-1~2]
  ■国境守備官は、商品を積んだ荷車に対して1パナ半の道路税を徴収すべきである。肩にかついだ荷に対しては1マーシャカの道路税を徴収すべきである。[2-21-24]
  ■(川の渡し場で舟に乗るとき)小動物、手荷物を持った人は1マーシャカを払うべきである。商品である荷物を運ぶ者は4分の1パナを払うべきである。[2-28-21]
  ■不適当な時間に、渡し場でない場所を渡る者には、最低のサーハサ罰金を科す。[2-28-15]

  サーハサ罰金とは、最低=48〜96パナ、中位=200〜500パナ、最高=500〜1000パナの3段階の裁判官の裁量で判断できる罰金です。


● 罰 金

  都市を汚す人への罰金が細かく決められていました。

  ■道路に汚物を投じた場合は、8分の1パナの罰金を科す。泥水で通行を妨げた場合は、4分の1パナを科す。[2-36-26]
  ■聖場・水場・神殿・王の施設において大便をした場合は1パナ以上−順次に1パナずつ上る−の罰金を科す。小便の場合はその半額の罰金を科す。ただし医薬・病気・恐怖が原因の場合は罰せられない。[2-36-26~27]
  ■都市の公園の、花や果実や陰をもたらす樹の芽を切る場合には6パナの罰金、小枝を切る場合には12パナの罰金、大枝を切る場合には24パナの罰金、幹を切る場合には最低のサーハサ罰金、根こそぎにする時には中位のサーハサ罰金を科す。[3-19-28]

  樹木は大切にされていたようです。

● 刑 罰
石柱のライオン柱頭

アショーカ王が北イ
ンド各地の仏教聖地
に建てた記念石柱。

(マイペディア98を利用)

  盗みの刑罰はかなり重いものでした。

  ■霊場荒らし、巾着切り、掻っ払いたちで、初犯の場合は、中指(または人差し指)と親指を切るか、あるいは54パナの罰金を科す。第二犯の場合は、五本の指を切るか、あるいは100パナの罰金を科す。第三犯の場合は、右手を切るか、あるいは400パナの罰金を科す。第四犯の場合は、司法官の望みに応じた死刑に処す。[4-10-1]

  このように、お金がある人なら、体罰の代わりに罰金ですますことができました。 他には次のような換算基準もありました。
    鞭打ち1回=5パナ
    片足=300パナ、両足=600パナ
    片手=400パナ、片手と片足=700パナ、片手と両足=900パナ
    耳と鼻=500パナ、両目=800パナ



● 女 性
アジャンター(本文とは余り関係ありません)

  女性の地位は、さほど低いものではありませんでした。結婚した女性は自分の財産(婦人財産)を持つことができました。

  ■生活費と装飾品が婦人財産である。生活費は最高2000パナの基金である。装飾品について制限はない。[3-2-14~15]
  ■夫が死亡した時、貞節を守ることを望む妻は、直ちに基金と装飾品と結納金の残りを受け取ることができる。受け取ってから再婚した場合、彼女は利子とともにその両方を返却すべきである。[3-2-19~20]

  ただし、妻は貞淑で、家の中でつましく暮らすことが求められていました。

  ■妻が禁じられているにもかかわらず、高慢で、飲酒・遊戯に耽るならば、3パナの罰金を払うべきである。 [3-3-20]
  ■夫の家を出る女性には6パナの罰金を科す。ただし、夫が虐待した場合を除く。[3-4-1]
  ■夫が眠ったり酔ったりした時に外出し、また、夫が帰っても門を開けない場合は、12パナの罰金を科す。夜間に外出する場合は2倍の罰金を科す。[3-3-23~24]

  これまでの俸給・税金・罰金などを総合すると、私たちの感覚では、1パナ=1万円くらいと思うのですが、いかがでしょうか。


● 秘 法

  コインの話題から離れて、何やら怪しげな秘法の一部を紹介します。

  ■クルタカンダラ、蜥蜴、家蜥蜴、盲蛇の煙は、視力を奪い、狂気をもたらす。蜥蜴と家蜥蜴の混合物は癩病をもたらす。それと同じものに、斑蛙の臓物と蜜を混ぜたものは、尿の病気を引き起こす。それに人間の血を混ぜたものは結核をもたらす。[14-1-19~21]
  ■ゴーダー(イグアナ)を赤と白の芥子ともに、1ヵ月半の間、駱駝形の器に入れて地中に埋めておき、死刑囚を使って取り出すと、それは見るものをすべて殺す。黒蛇の場合も同様である。[14-1-33]
  ■水蛇の皮袋を、男女の吐息と土で満たすべきである。これは鼻を詰まらせ、口をきけなくする方法である。猪の皮袋を、吐息と土で満たし、猿の腱で縛るべきである。これは大小便を詰まらせる方法である。[14-3-67~68]


紀元前3世紀のインド
(東京書籍「ビジュアルワイド図説世界史」)
● その後のマウリア王朝

  チャンドラグプタの軍隊は、歩兵=60万、騎兵=3万、象=9千、戦車=数千だったそうです。この数字から、マウリア王朝の人口は600〜700万程度ではなかったかと推定されています。
  マウリア王朝はその後、チャンドラグプタの孫のアショーカ王(在位273-232BC)のときに最盛期を迎えましたが、この後は急激に衰え、紀元前180年ころ滅亡しました。



  『実利論』は、カウティリヤ自身の作ではなく、彼が残した原型を元に、数百年後に成立したものであろうといわれています。 その根拠は次の1文です。
      ” チーナ国産の絹布の場合も、これに準じて説明される。[2-11-114] ”
  中国をチーナ(シナ、チャイナ)と呼んだのは、始皇帝の秦の時代より後のことです。



 謝辞 
  山形市の酒井さんから、「実利論」について何か書いてみては、とお薦めいただきました。
  千葉県市原市の山下さんから、古代インドの貨幣制度について、いろいろ教えていただきました。
 どうもありがとうございました。

参考文献:
  @カウティリヤ著、上村勝彦訳、「実利論」、岩波文庫、1984
  APLグプタ、「インド貨幣史」、刀水書房、2001
  B山崎利男、「ビジュアル版世界の歴史4−悠久のインド」、講談社、1985


2003.2.1   2017.12.30 改訂