唐の貨幣

● 「五銖銭」

西暦618年、隋末の混乱を鎮めた李淵は、「唐」帝国を名乗りました。
その頃使われていた貨幣は、「五銖」銭です。
この「五銖」は、前漢以来700年以上にわたって中国世界で使われていたほとんど唯一の通貨でした。
隋の「五銖」 581年 2.6g 23.1mm


● 「開元通宝」

「開元通宝」の初期の発行地
621年、李淵はこれを廃止して、全く新たな「開元通宝」を発行しました。
重さを1両の10分の1(2.4銖)とし、穴の周囲に4文字を配しました。 欧陽詢の書と伝えられます。 当時は、全く斬新的で画期的な貨幣改革でした。
洛州など全国各地で大量に発行されましたが、書体や品質はかなり一定しています。
唐の「開元通宝」 621年 3.2g 24.4mm

同時に、彼は隋の制度を模範に律令制度を整えます。 624年に、「均田法」と「租庸調制」を施行しました。

●「均田法」
晋の時代から続く土地制度。
すべての田畑は国家のものとし、農民からの租税を確保しようとするもの。 唐の制度では、成年男子(21〜70歳)に80畝の口分田と、20畝の永業田(桑または麻の畠)を給した。
●「租庸調制」
北魏に始まった税制。
唐の制度では、成年男子から毎年、租(粟2石)、庸(年20日の労役)、調(絹2丈または麻布2.5丈と綿3両)の税を納めさせた。 労役は1日あたり絹布3尺または麻布3.75尺で代納することもできた。

1畝はおよそ5.2アール。 1畝から、粟(もみあわ)1〜2石(60〜120リットル)が収穫できました。、
当時の物価は およそ絹1疋(40尺=12.4メートル)=粟麦1石=400文でした。
またこの頃の都市労働者の賃金は、1日およそ50文と推定されています。


● 「乾封泉宝」

660年頃、唐は西域とモンゴルにまたがる突厥を討ち、勢力は最大になります。
この当時唐の人口は、およそ5000万人、長安は世界有数の百万都市でした。
しかし一方、貨幣経済が浸透していくにつれ、「悪銭」(贋金)の増加や、銭不足の現象がおきてきました。

666年、新たな「乾封泉宝」を発行し、開元通宝10文に相当させました。
銭不足を解消する目的だったのでしょうが、重さがわずかに重いだけで、実体のそぐわないもので、国民には至って不人気。 ついに1年を待たずに廃止されました。
「乾封泉宝」 666年 4.8g 26.1mm

● 安史の乱と「乾元重宝」

712に有名な玄宗が皇帝になりました。
722年、これまで徴兵制(府兵制)だった軍隊を募兵制としました。 これ以降、軍人たちにも多額の給料としての銭貨を必要とします。 ますます銭の需要が高まりした。
銭の元となる銅が不足し、このころ、政府はしばしば、「銅禁」(銅の売買を禁止)を布告しています。

その後、玄宗皇帝は政治をおろそかにし、「安史の乱」(755〜66年)が起きます。
758年、戦費をまかなうため「乾元重宝」を発行し、開元通宝10文に定めます。 さらにその翌年、背重輪(裏に二重の輪がある)の乾元重宝を発行し、30文とします。 当初はやや大型の銭だったはずなのですが、今日みられるものは、銭径の小さなものも多くみられます。 民間の私鋳銭も多くあったと思われます。 場当たり的な高額銭の発行と、粗悪な銭の氾濫で大インフレになります。 1斗あたりの米が(数十文だったのが)7000文にもなりました。
この後政府は、背重輪の乾元重宝:普通の乾元重宝:開元通宝=30:10:1を3:2:1にしたり、結局1:1:1になってしまいました。
「乾元重宝当十」 758年 6.5g 28.5mm
小型化された「乾元重宝当十」 2.3g 23.5mm
「乾元重宝当三十」 759年 13.9g 35.7mm
私鋳銭の「乾元重宝当三十」 4.8g 24.0mm

この時期、安禄山と史思明たちは「大燕帝国」を名乗り、「得壱元宝」、「順天元宝」などの独自の貨幣を発行します。 どちらも開元通宝100文に相当させました。 乱は763年に、ウイグルの援助を得た唐に敗北し収束しました。
史思明の「順天元宝」 759年 17.3g 37.2mm

勢力の衰えた唐に対して、チベットの吐蕃が侵攻し、西域の「安西都護府」は孤立してしまいます。 彼らは、中央政府の定めた年号を冠して「大暦通宝」「建中通宝」などの独自の貨幣を発行しました。 やや小ぶりですが、好感のもてる貨幣です。
安西都護府の「建中通宝」 780年 2.4g 24.0mm
安西都護府の「大暦元宝」 769年 4.1g 23.7mm

乱は収束したものの、国内は疲弊し、北のウイグル、西南の吐蕃が勢力を高めました。 ウイグルも唐のコインに似たコインを発行しました。
ウイグルのコイン 759-779年 20.7mm 3.0g

国内では、口分田の不足と荘園の増加で均田制が崩壊しました。
764年に新たな税(青苗銭)が定められ、780年、租庸調制は「両税法」に変わりました。

●「青苗銭」
764年、安史の乱で財政難に陥った唐が設けた付加税。
当初「地頭銭」と呼ばれ、毎年秋に1畝あたり10文の税を徴収した。 その後766年に、徴収時期を春とし、「青苗銭」と改称、678年には15文に増税された。
●「両税法」
農民だけから税を徴収する「租庸調制」に代わって、商人も含めたすべての国民から税を徴収する制度。
すべての人から資産に応じて徴収する「戸税」と、「夏税(絹・綿・麦)」、「冬税(稲、粟)」からなり、銭納が原則。 夏と冬の二回徴収することで「両税法」と呼ばれた。 商人に対しては、商品価格の30分の1が課税された。

政府の税収は、200万貫が1200万貫に増えました。
人口5000万、1000万世帯とすると、1世帯あたり毎年1200文の税ということになります。

貨幣経済はますます盛んになりました。 遠距離間の商品取引(茶、塩、絹など)が盛んになりました。 そのため、しばしば「銭荒」(貨幣が不足すること)が起き、しばしば「銅禁」(民間での銅の使用と取引を禁止する)や、「禁銭」(銅銭の移動を禁止する)政策がとられました。

● 「会昌開元」
840年場所粟米
(もみごめ)
粳米
(うるちごめ)
小豆
(麦の粉)
3月2日登州3070  
3月15日莱州5090  
3月19日北海県60 35 
3月25日青州80100  
4月10日禹城県451001570〜80

838年、日本の遣唐使の一行に比叡山の僧円仁が加わっていました。 彼は五台山に参詣するなど、唐で多くの知己を得、求法しました。
彼の日記には、旅をしたときの物価が書かれています。 すべて1斗(6リットル)あたりの値段です。 全国的に貨幣経済が浸透していた様子がわかります。


会昌開元の発行地


840年に帝位についた武宗皇帝は道教を敬い、仏教・イスラム教・マニ教を排斥しました。 多くの寺をつぶし、仏具を鋳つぶしました。
845年、彼はその仏具で開元通宝を鋳造しました。
全国23か所で鋳造され、背には、「洛」、「潤」など発行地名(多くは州名)を刻んでいます。 これらは、発行された年号「会昌」をとって、「会昌開元」と通称されています。 面の風格ある文字に対して、背の稚拙な文字が対照的です。 しかし、200年以上前と同じ基準で作られたことには驚かされます。


「会昌開元」背潤 3.6g 23.4mm
背昌 3.2g 23.0mm
背洛 3.5g 23.7mm
背京 4.0g 23.7mm
背越 3.7g 23.3mm


● その後の影響

875年におきた黄巣の乱後、その乱を鎮めた朱全忠が907年「梁」を建国し、唐はほろびました。
しかし、唐の発行した「開元通宝」は、近隣諸国を含む後世に大きな影響を与え、19世紀に至るまで、中国・日本・朝鮮・安南などの銭貨の基準となりました。


【参考文献】
  加藤繁訳註、「旧唐書食貨志」、岩波文庫、1948
  中島忍、「中国の貨幣/歴代貨幣編−1〜5」、『収集』連載、2011年1月号〜5月号
  宮澤知之、「中国銅幣の世界」、思文閣出版、2007
  地図は、吉川弘文館発行の「世界史地図」を利用しました。

2012.11.23