入唐求法巡礼行記

  比叡山の僧円仁(794-864)は、承和5年(838)遣唐使の一行に加わって唐に渡りました。
  帰国するまでの9年間の日記、『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』が残されています。
  この当時の唐の通貨は「開元通宝」です。




●838年(日本・承和5年、唐・開成3年)

  6月13日、博多で遣唐使船に乗船しました。 遣唐大使は藤原常嗣です。 円仁の他に円載という僧侶も同船しました。
  7月2日、殆ど難破しそうになっていたところ、やっとのことで長江の北岸に近いところ東梁豊村に上陸できました。 一行は暑さと雨、蚊、下痢に悩まされます。
  7月26日、この地方の大都市揚州に行き、天台山へ行くことを願い出てますが、なかなか勅許が得られず、開元寺に逗留することにします。

  日本より持ってきたものを銭に交換しました。
品 物売却値備考
10月14日沙金6両45貫825文この「両」は大両か
10月14日白絹2疋2貫文1疋=12.44m
11月19日絹4疋、綾3疋6貫文 

  沙金は砂金のことです。金1両=9,400文の相場なのですが、複雑な商取引の習慣から、計算どおりにはならず、8割くらいにしかなりませんでした。

  僧侶としての衣服なども整えました。 日本からは持ってこれなかったのでしょう。
品 物費 用備考
10月9日袈裟3組1貫700文(縫手の賃金のみ)大衣、中衣、小衣の1セット3着
10月24日座具250文(作手の賃金のみ)僧侶用の敷物の一種
11月2日「維摩関中疏」4巻450文 

  11月18日、揚州の節度使李徳裕が開元寺に来て、円仁らと会談。 日本は寒いか? お寺はどれくらいある? 尼寺はあるか? 道士(道教の僧)はいるか? 都はどれくらいの大きさか? などの質問がありました、 会談はすべて筆談だったようです。


●839年(日本・承和6年、唐・開成4年)

  2月25日、円載のみ台州に行くことを許され、円仁らは帰国するよう命令されます。 円載には大使から学問の料が与えられました。
     東絁(あずまぎぬ)35疋、 帖綿(たたんだ真綿)10畳(かさね)
     長綿68屯(1屯=223.8g)、  沙金25大両(=932g)

  円仁の失望が推し量られます。 しかし円仁は、尚も夢を捨てませんでした。 大使が出発した後も弟子・従者と4名で山東半島に移り、新羅僧と身分を偽ったりして機会をうかがいます。
  4月5日、驢(ろば)を雇って移動しました。 1頭20里の賃金は50文でした(1里=560m)。 別な記録では、同じ20里で20文、100里で120文だったこともありました。

●840年(日本・承和7年、唐・開成5年)

  2月24日、登州文登県の役人がやっと公牒(通行手形)を発行してくれました。 さらに登州の長官は、円仁らに
      米2石、麺2石、油1斗、酢1斗、塩1斗、柴30根
を施してくれました。 1石、1斗は現在の日本の1/3です。
  円仁は、五台山に向かいました。   しかし、このとき通過した地方では蝗が大量発生し、米穀の値段が上がっていました。
場所粟米粳米小豆備考
3月2日登州3070  1斗(現在の3.3升)あたりの値段(文)

粟米(もみごめ)=皮のついたままの米
粳米(うるちごめ)=皮をとった玄米
麺=麦を粉にしたもの
3月15日莱州5090  
3月19日北海県60 35 
3月25日青州80100  
4月10日禹城県451001570〜80


  4月11日、薬家口で黄河を渡りました。 舟賃は、人5文、驢(ろば)15文です。
  目指す五台山に近づくと、絶景の景色が続きました。


4月26日
山風は漸く涼しく、青松は嶺に連なる。西行すれば嶺高く谷深し。翠嶺は雲を吐き、谿水は緑流を瀉ぐ。

4月27日
山巌は崎峻にして天漢(天の河のこと)に接せんと欲し、松は翠碧にして青天と相映ず。嶺西の木葉は未だ開帳せず、草は未だ四寸に至らず。


五台山竹林寺からの遠景
平安京探偵団さんの「円仁が見た風景」から許可を得て借用しました

  5月1日、五台山の中心地、竹林寺に到着しました。
  五台山に2ケ月ほど滞在したあと、7月1日、長安に向ました。 今度は平穏な旅でした。
  8月22日、長安に入り、資聖寺に寄住することになります。
  これから、2年余りが円仁にとってもっとも求法に専念できた頃だったと思われます。 多くの師と知己を得ました。

●842年(日本・承和9年、唐・会昌2年)

  予想していなかったことがおこりました。 皇帝武宗が、不老不死思想の道教に執心し、仏教、イスラム教、マニ教を排斥しようとするのです。
  10月9日には僧尼条流の詔勅が出されました。 僧侶は還俗しろとのお触れです。

●843年(日本・承和10年、唐・会昌3年)

  廃仏の動きは盛んになり、寺院の財産は没収され、都の僧だけで3000人以上が還俗させられました。 この廃仏の推進者は、何と前の揚州の節度使李徳裕でした。


●845年(日本・承和12年、唐・会昌5年)

会昌開元 背潤  3.6g 23.4mm
会昌5年より全国各地で鋳造されたもので、「会昌開元」
と呼ばれています。
大量の仏像、仏具を鋳潰して作成したものです。
風格のある面文(欧陽詢の筆)に比べて、背の字の稚拙
さが目立ちます。
  廃仏の動きはますます盛んになり、もはや求法できる情況ではなくなりました。
  日本に帰国することにし、5月15日、長安を出ました。 多くの知己が別れを惜しみ、餞別をくれました。
  揚州を経由し、8月24日、登州文登県に至りました。
  この間、7月5日、土地の役人に300文の袖の下を出して、不法駐留を見逃してもらったことがありました。
  文登県で、日本行きの船を待ちました。 しかし日本へ行く船はめったにありません。 船があるとの知らせに急いで駆けつけても出港したあとだったことがありました。

●847年(日本・承和14年、唐・大中元年)

  2年も待って、やっと日本行きの船を見つけました。 9月2日、赤山浦を発し、日本に向いました。 9月17日、無事博多に上陸、9年ぶりの帰国でした。




  このころの単位 (この他にもいくつか説はあるようです)
    貨幣 1貫文=1000文、 1文は開元通宝1枚
    度  1里=1800尺=560m、 1丈=10尺=3.11m
    量  1石=10斗=100升=59リットル (現代の日本の1/3)
    衡  1斤=16両、 1両=24銖、 1大両=3小両=37.3g
    絹  1疋=4丈=12.44m (巾は1.8尺=56cm)
    布  1端=5丈=15.55m (巾は1.8尺=56cm)
    綿  1屯=6両=223.8g

  この時代、地方においても開元通宝の貨幣経済が普及していましたが、大量の金額のときは、砂金や絹布がその役割を果たしていたとがよく分かります。
  また、日本の和同開珎時代(750年ころ)、米1斗(現在の4升)=50文でした。 一方、唐の時代、この日記では米1斗(現在の3.3升)=70〜100文でした。 このときが飢饉のときだったことを考えると、和同開珎と開元通宝の価値はよく似ています。
  労賃についてはよく分かりませんが、単純労働者で1日50文前後ではなかったかと推察します。 とすると、1文=100〜200円くらいと考えていいのではないでしょうか。


参考文献:
  円仁著、足立喜六訳注、塩入良道補注、「入唐求法巡礼行記」、平凡社東洋文庫、1970、1985


2002.7.27 2002.9.16改訂