バットゥータの大旅行


 ● 旅の始まり
 モロッコ(当時マグリブ地方と呼ばれていました)のタンジャに生まれたイブン・バットゥータがメッカを目指して故郷を出発したのは、西暦1325年6月14日のことでした。 まだ独身、21歳の若者の一人旅でした。
 ■出 発[第1章]
 シャイフ=アブー・アッラー・イブン・バットゥータは、次のように語った。私がメッカにある聖なる家に巡礼を行い、同時にメディナにある神の使徒に、神の至上なる祝福と平安あれ! の聖墓を参拝する目的をもって、この世に生を受けた故郷の町タンジャを出発したのは、ヒジュラ暦725年の神の月、無二なるラジャブ月の第2日、木曜日のことであった。
(1304年)

 これが25年にもわたる大旅行になるとは、本人も予想していなかったことでしょう。
 メッカ巡礼を果たしたのは2年後の9月ですが、その後も故郷に帰ることなく、世界を大旅行します。

14〜15世紀のマメルク朝またはその周辺国家の銀貨
下の二つは1ディルハム銀貨と考えられる
上から 25-26mm 4.2g / 20-21mm 2.8g / 12-13mm 2.7g

 ● 西アジアの市場
 当時西アジアには、マメルク朝スルタン[エジプト、シリア]、ジャライル朝[イラク]、イル汗国[イラン]などのイスラム諸国が割拠していました。 (オスマントルコは、小アジアの一角を支配する小国でした。)
 イスラム世界の通貨は、695年のアブド・アルマリクの貨幣改革のときに、
   1ディナール金貨(4.25g)=22ディルハム銀貨(2.9g)
と定められましたが、その後変遷があり、バットゥータのころは
   1ディーナール金貨=25ディルハム銀貨
であり、また
   1ディルハム銀貨(エジプト、シリア)=3ディルハム銀貨(イラク、イラン)
      =6ディルハム銀貨(マグリブ)
のような地域差もできていたそうです。 この記述から、同じ「ディルハム銀貨」でも
   エジプト・シリア地方では約6g、イラク・イラン地方では約2g、マグリグ地方では約1g
だったのではないかと推定します。
 ■小アジア北部のカスタムーニヤの町の市場[第9章]
 われわれは、この町に40日間ほど滞在したが、その間、いつも肥えた羊肉の大塊を2ディルハムで買い、またパンを2ディルハムで買ったが、それだけで、われわれ仲間の10人がまる1日を十分に食べられた。またわれわれは、蜂蜜菓子を2ディルハムで買い、われわれ全員がそれで満足した。われわれは、胡桃を1ディルハム、栗もそれと同じ値段で買い、われわれ全員でそれらを食べたが、余ってしまうほどであった。さらに、われわれは薪束1荷を1ディルハムで買ったが、その時は丁度、厳寒の時期であった。従って私は、これよりも物価の安い町を他に見たことがなかった。
(1332年)

 この他にも、当時のイスラム世界の物の値段が紹介されています。
場所品物数量(推定数量)金額マグリブ銀貨換算備考
イラク(バスラ)ナツメ椰子の実14イラクラトル6Kg1ディルハム2ディルハム 
イラン(カリール)りんご15イラクラトル6Kg銀貨1枚2ディルハム 
シリア(ダマスクス)パン7ウーキーヤ1Kg1ディルハムヌクラ6ディルハム天候不順で物価高騰
エジプト羊肉18ウーキーヤ700g1ディルハムヌクラ6ディルハム 
葡萄1エジプトラトル450g1ディルハムヌクラ6ディルハム 
シリア葡萄1シリアラトル1850g1/2〜1ディルハムヌクラ3〜6ディルハム 
10ウーキーヤ1.5Kg1ディルハムヌクラ6ディルハム 
柘榴、マルメロ1個 8フルース1ディルハム 
青物野菜1シリアラトル1850g1ディルハムヌクラ6ディルハム 
1シリアラトル1850g2.5ディルハムヌクラ15ディルハム 
マグリブ青物野菜  1ディルハム1ディルハム 
18ウーキーヤ700g2ディルハム2ディルハム高いとき 
  (1イラクラトル=400g、1シリアラトル=1850g、1エジプトラトル=450g、1シリアウーキーヤ=150g、1マグリブウーキーヤ=40g で計算)
 これらのことから、時と所に大きく左右されますが、大雑把にみると庶民の生活費は、
   1日の生活費は、ディルハム銀貨数枚
   1ケ月の生活費は、ディーナール金貨数枚
なのではないか想像します。

ビザンチン帝国のヒュペルピュロン貨
アンドロニクス2&3世 1325〜34年 2.8g 19-21mm
キプチャク汗国のディルハム銀貨
ウズベク汗 1312〜41年 1.4g 16.0mm
 ● ビザンチン帝国
 イスラム諸国に押されながらも、ビザンチン帝国はまだ威光をなくしてはいませんでした。 バットゥータは、キプチャク汗国のハーンに嫁いでいたビザンチンの皇女ハートゥーンの里帰りに随行しました。 コンスタンティノープルに到着すると、彼女からお礼の品が下されました。
 ■ビザンチンの皇女[第10章]
 ハートゥーンは私のもとに使いを遣わし、彼らの金貨で300枚のディナール金貨−−−彼らは金貨をバルバラと呼び、これは良貨ではない−−−、またヴェネツィア銀貨2000枚、乙女たちの織った極上品質の毛織物敷布、絹、亜麻や羊毛の衣類10領、2頭の馬−−−馬は彼女の父君からの下賜品であった−−−を私に授けてくれた。
(1333年)
 「バルバラ」は、ヒュペルピュロン(hyperpyron)の音訳のようです。 金と銀が半々くらいの貨幣です。 右のコインは、彼女の父が発行したヒュペルピュロン貨と夫の発行したディルハム銀貨です。

 ● インド
トゥグルク朝のタンカ銅貨
1332年発行 20〜21mm 厚さ3.6mm 9.2g
 インドは、トゥグルク朝のスルタン=ムハマドが統治していましたが、相次ぐ叛乱や飢饉に悩まされていたようです。
 インドの通貨単位とマグリブの通貨との交換比率は、
   1ディナール金(インド)=10ディナール銀(インド)=2.5ディナール金(マグリブ)
でした。
 ■バットゥータたちが、スルタンに雇われる[第17章]
 続いて私が中に入って見てみると、スルタンは宮殿の高壇の上で、玉座に背を凭せかけておられた。・・・
 「拝礼せよ! 世界の御主人さまは、そなたを王国の都デリーにおける法官に御任命あそばされた。そなたの俸給は、年間1万2千ディーナールとされ、そなたのためにその収益が見込まれる領地を割り当てられた。」
(1333年)
 バットゥータは、スルタンから年俸1.2万ディナールで、首都デリーの法官に雇われたのです。 その他の外国人には、次のような人たちがいました。
   最高司法行政官   年5万ディナール
   諸官庁の会計職   年4万ディナール
   外国使節に対する式部官 年2.4万ディナール
 バットゥータが法官として仕えたのは8年間にも及びましたが、そのころ、シナの王(元の皇帝)からスルタンへの贈り物が届きました。 バットゥータは、スルタンからその返礼を贈る使者に任命されました。 ところが、シナに向かう途中強力な叛乱軍に襲われ、なんとか命は助かりましたが、もはやデリーに戻ることはできませんでした。

 ● マルディブの子安貝
子安貝
20〜23mm 1.7〜3.6g
 インド洋に浮かぶマルディブでは、子安貝が貨幣として使われていました。
 ■マルディヴの子安貝 [第20章]
 この群島の住民の売買貨は、子安貝である。 島では40万個の価値が金貨1枚として買われるが、時にはもっと安くて、100万個が金貨1枚で取引されることもある。
 島民たちは、子安貝と交換でベンガル人から米を購入する。それは、子安貝がベンガル地方の人々の売買貨でもあるからである。
 こうした子安貝は、他ならぬスーダン人たちの地方における、彼らの使っている売買貨でもある。 私は、実際に、マーッリー(マリー王国)とジュージュー(ニジェール川流域のガオ)で、子安貝1150個が金貨1枚と交換されているのを見たことがある。
(1343〜44年)
 金貨1枚あたり40〜100万個だったのが、はるか西アフリカの内陸部に届けられると、1150個となり、その価値の比率は、350〜870倍になっています。
 翌朝、宰相が私のもとに記念の衣服と接待の食事を送ってよこした。その食事は、米飯、バター、塩漬け肉、ココナツ、ココナツから造った蜜であった。また、彼らは日々の必要経費として、10万個の子安貝を届けてくれた。
 子安貝1個平均2gとすると、10万個では200Kgにもなります!

 ● シナの紙の貨幣
元の「至元通行宝鈔」
283×202mmの巨大な大きさです。
(画像は、日本銀行金融研究所の
『貨幣博物館』を利用しました)
 元の都大都(現北京)に着いたのは1346年のことです。 マルコ・ポーロが着いたのは1275年ころですから、およそ70年前のことになります。 マルコ・ポーロ同様、紙の紙幣(宝鈔)に驚きます。
 ■シナの紙の貨幣 [第25章]
 シナ人は、ディーナール金貨やディルハム銀貨を商売に使わない。外国との取引きで彼らの国に利益として得られたそうしたもの(金貨や銀貨)のすべてについて、彼らは鋳塊に溶かしてしまうためであり、それに代わって国内における彼らの売り買いは、紙片によってのみ行われる。その一つの紙片は手のひらほどの大きさで、皇帝の印璽が押され、その紙片25枚がバーリシュト(銀1錠=約2Kg?)と呼ばれ、われわれの国にある1ディーナールの価値に相当する。
 もし、一般の人たちが1枚の銀のディルハム、あるいはディーナール金貨を持って市場に行き、何かを買おうとしても、受け取ってもらえず、全く相手にされないので、結局、その金を1ディーナールにつき1バーリシュトと両替して、望むものを購入することになるのである。
(1346年)
 このころ元は政治不安定で、各地で一揆や叛乱が起きていました。 元が明に倒されたのは、この18年後のことです。

 ● 帰国へ
12世紀のアイユーブ朝のディーナール金貨
19.5mm 5.3g
 ■帰国途上のシリア・ダマスクスにて[第26章]
 われわれはそこからシリアのダマスカスの町へ向かった。私がかつてそこを留守にして以来、実に満20年ぶりのことであった。かつて私は、その町に身重の妻を残したまま旅立ったが、その後、ちょうど私がインド国にいる時、その妻が男の子を産んだとの便りがあった。そこで私は、その子の母方の祖父に当たる人に話して、インドの金貨40ディーナールを送っておいた。そのため今回、私がダマスカスに着いた時、他はさておき第一に気がかりであったのは、わが子の消息についてだった。
(1348年)
 この時代に「便り」や「送金」ができたことは、現代人にとって非常な驚きです。
 残念ながら、バットゥータの子は、12年前に亡くなっていたそうです。
 故郷タンジャに帰ったのは、1350年のことで、出発から25年たっていました。

 ● 西アフリカの貨幣
 帰国後2年たって、今度はサハラ砂漠を縦断し、西アフリカ内陸部への旅行をしました。 当時、マーッリー(マリ)などの黒人帝国が栄えていました。
 ■西アフリカ、内陸部の町の塩の通貨 [第28章]
 スーダーンの人たちは、自分たちの地方から来て、そこから塩を運んで行くが、その1荷の値段は、イーワーラータンでは8〜10ミスカール金、マーッリーの町では20〜30ミスカール金であり、時には40ミスカール金にもなる。そして他ならぬその塩によってのみ、スーダーン人たちは交換取引きを行っており、それはちょうど、他の地域において金や銀で取引きが行われるのと同じで、彼らは塩を一片の大きさに切り、貨幣のようにそれで売買を行うのである。
(1352〜53年)
 1ミスカールは、エジプトの重さで4.68gくらいです。 また、駱駝1荷の重さは通常、250〜280Kg。
 ■西アフリカ、内陸部の町の銅棒の通貨 [第28章]
 銅鉱山はタカッダーの郊外にあり、彼らタカッダーの人々は銅鉱脈に沿って地中を堀り、その銅鉱石を町にもたらし、彼らの屋敷内でそれを溶かすが、それの作業は、彼らの男奴隷を女奴隷たちが行う。彼らは、それを赤銅に溶解し、長さ1.5シブルの銅棒に作る。その棒は薄板棒のものもあれば、厚板棒のものもある。そのうち厚板棒の方は400本が1ミスカール金で売られ、薄板棒の方は600本もしくは700本で1ミスカール金の値で売られる。
 つまり、彼らの物価に換算すると、銅の薄板棒1本で肉と薪木が買える。また厚板棒1本で男奴隷と女奴隷、モロコシ、バター、小麦が買える。
(1353年)


参考資料
  イブン・バットゥータ著、家島彦一訳、「大旅行記」、東洋文庫、1996〜2002
2005.1.2 2005.11.19 少し模様替え