海上の道

  秦の始皇帝の世に、銅を通貨に鋳るようになったまでは、中国の至宝は宝貝であり、その中でも二種のシブレア・モネタと称する黄に光る子安貝は、一切の利慾願望の中心であった。
  金銀宝石と光輝を競うことが、かの心理の根源ではあったろうけれども、同時にまた是を手に入れる機会の乏しさが、今日の眼からは考えられぬほどの、異常なる貴重視を促したのかと思われる。
                                 ・・・・・  柳田国男、『海上の道』

キイロダカラ 18-21mm 1.0-2.5g
  ● キイロダカラ
  ひとくちに宝貝といっても、200種類くらいあります。 その中で、古代から貨幣に使用されたといわれているものは、和名で「キイロダカラ」と呼ばれているものです。
  暖かい浅海を好み、日本では関東以南に棲みます。 大きいものでも25mmくらいです。
  学名を「Monetaria Moneta」といいます。 中国名は「銭幣宝螺」、英語名は「Money Cowrie」、古来より世界中の人が貨幣と結びつけた貝であることがわかります。
  ( 日本で「子安貝」と呼ぶものは、広い意味では宝貝全般を指しますが、狭い意味ではもっと大きい「ハチジョウダカラ」を指します。 )

  ● 殷・周の貝貨
貝貨 15-21mm 0.5-2.0g
  中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
  宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。 はるか海上の道を伝って運ばれたものです。 宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
  殷王朝の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を下賜した記録が残されています。
  西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
    墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
  柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島の宝貝が殷王朝に供給された可能性を強調されています。



  ● その後の宝貝

◆ 8〜9世紀 中国雲南地方(南詔)
  『唐書南蛮伝』では、南詔国の風習として、
  ” 貝をもって市易し、貝十六をもって一覓(べき)となす ”
と記しています。「覓」の意味は不明です。

◆ 13世紀 中国雲南地方(大理)
「貯貝器」という貝貨を保存するための器で、
雲南地方の墓から出土したもの。
(「クロニック世界全史」(講談社)を利用しました)
  13世紀末、元を訪れたマルコポーロは、『東方見聞録』の中で、雲南・大理地方で、子安貝が貨幣として使用されていることを書いています。 (2種類ある訳本に微妙な差がありますので、両方を紹介します)
” 金沙江をこえるとひろいカラジャン地方[今の雲南]で、王国が7つある。大ハーンの領土で、住民は偶像崇拝教徒である。 ・・・ 通貨には海に産する白い子安貝をつかう。例の犬の頚に時々つけているあれである。子安貝80個がちょうどヴェニス銀貨1グロートすなわち24ピッコリに相当する。 ”  ・・・ 現代教養文庫版
” プリウス河を越えるとカラジャンにはいるが、この地方はとても広大で少なくとも七王国が含まれている。 ヤチ王国は西方に位置し、住民は偶像教徒でカーンに隷属する。 ・・・ すなわち彼らは白いコヤスガイを貨幣の代用として使用しているのである。コヤスガイとは海で採れる貝殻で、ほらあのイタリアの女房たちがしている高い飾りカラーによくついているあの貝である。このコヤスガイ80個が銀1サジオ(4.7g)、すなわちヴェニスの2グロッシに換算され、純銀8サッジが純金1サジオに相当している。 ”  ・・・ 東洋文庫版
  1グロート(グロッシュ)は純銀2.5g前後の銀貨です。 また、ラオスやベンガル地方でも子安貝を使用していると書いています。

◆ 14世紀 タイ
  14世紀の中国の汪大淵は、タイのロップ・ブリ地方ではコインの代わりに子安貝で取引するのがルールだと記しています。
  タイでは18世紀まで使われていたそうです。

◆ 14〜20世紀 アフリカ(マリ)
  1352年、西アフリカ内陸部のマリを訪れた旅行家イブン・バットゥータは、宝貝が金の延棒や銅線(”銅銭”ではありません)とならんで正規の通貨として使われており、しかも産地のモルディブ諸島の1000倍近い価値があったことに驚いています。 宝貝はモルディブから北アフリカ経由で、サハラ砂漠を横断して伝えられたようです。
  16世紀初頭にこの地を訪れたレオ・アフリカヌスも、高額貨幣は金、低額貨幣は宝貝だと記しています。
  この地方では、20世紀前半まで貨幣として使われていたそうです。

◆ 15世紀 モルディブ諸島
  1416年、鄭和の南征に同行した馬歓の報告書『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』では、モルディブで宝貝を採集し、シャム(タイ)やベンガルに輸出していたことが書かれています。
●溜山国(モルディブ)
(カウリ)をこの国の人びとは山のように採集し、網をかぶせて貝肉を腐らせ貝殻だけにして暹羅(シャム)や榜葛刺(ベンガル)などの国に転売し、銭として使用される。
  「カウリ」は、英語の「Cowrie」の語源です。

◆ 15世紀 琉球
  1434年、琉球王朝は明国に550万個の「海巴」を献上したと『歴代寶案』にあります。この海巴は宝貝のことだと推定されています。
  柳田国男さんは、この550万個はこの年のことだけでなく、このころ毎年のように献上されていたのではないか、とするとその数は莫大なものだと述べられています。
  また、明の朱国禎の『湧幢小品』によると、西南夷において、貝貨は1索80個で使用されていると書いています。

ガーナの1セディ黄銅貨(1984年)
◆ 16〜19世紀 アフリカ(ダホメ)
  西アフリカのダホメ王国(後奴隷海岸、現ベナン)でも宝貝が貨幣として使用されていました。 その最盛期は17〜18世紀のことで、市場では宝貝がないと全く買い物が出来ませんでした。 そして、金1オンス(28g)=宝貝3万2千個という安定した交換レートがあり、最低生活賃金は男で120個、女で80個だったそうです。 宝貝の使用は1901年まで続きました。
  1965年、ベナンの隣のガーナで新たな貨幣制度が設けられたとき、貨幣の単位は「セディ」と決めました。セディとは貝殻の意味です。

◆ 18〜19世紀 インド(ザイール、オリッサ)
  ムガル王朝の末期、イギリス領のベンガル、オリッサ地方では、宝貝が小額貨幣として使用されていました。 貨幣の全流通高の2割以上が貝貨だったそうです。
  1ルビー銀貨=64パイス銅貨、1パイス銅貨=80貝貨の交換レートがありましたが、実際には相場で変動していました。1ルビーは約11gの銀貨です。
  宝貝はインド洋のモルディブ諸島[地図D]で採れたもので、商人たちはモルディブで1ルピー=9000枚で仕入れ、ベンガル・オリッサ地方で1ルピー=2500〜3000枚で売却していました。

◆ 19世紀 アフリカ(ザイール、ウガンダ、スーダン)
  ザイールのキャンシャサ奥地に住むクバ族では、貝貨が使用されており、1850年ころ、ニワトリ1羽=10個、女の奴隷=1000個だったそうです。
  その後ポルトガル人が宝貝を大量に持ち込んだため、100年後には、ニワトリ1羽=400個にまで価値が下がりました。
  ウガンダでは、1897年まで1ペニー=宝貝50個の交換レートがありました。
  スーダンでは、1907年まで納税に宝貝が許されており、7フラン=1袋(2万個)でした。

◆ 20世紀 ニューギニア
  ニューギニアの山地族ではつい最近まで貝貨が使用されており、さつまいも1個=貝3個、嫁=貝100個(結納金?)だったそうです。

参考資料
  黒田明伸、「貨幣システムの世界史.<非対称性>をよむ」、岩波書店、2003
  国立歴史民族博物館編、「お金の不思議」、山川出版社、1998
  柳田国男、「海上の道」、岩波文庫、1978
  マルコポーロ、愛宕松男訳、「東方見聞録」、平凡社・東洋文庫、1970
  マルコポーロ、青木富太郎訳、「東方見聞録」、社会思想社・現代教養文庫、1969
  ジョナサン・ウィリアムズ、「お金の歴史全書」、東洋書林、1998
  山田勝芳、「貨幣の中国古代史」、朝日選書、2000
  坂井信三、「西アフリカの王権と市場」、山川出版社「市場の地域史」、1999
  ポランニー著、栗本慎一郎・端信行訳、「経済と文明」、ちくま学芸文庫、2004
  渡辺義一郎、「中国歴代西域紀行選」、ベースボール・マガジン社、1997
  吉良哲明、「原色日本貝類図鑑」、保育社、1954
  小菅貞男、「日本の貝」、成美堂出版、1994
  「日本大百科全書」、小学館、1984〜
  小川博編、『中国人の南方見聞録−瀛涯勝覧』、吉川弘文館、1998
  Franz Pick-Rene Sedillot, "All The Monies of The World", Pick Publishing Corp., 1971
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